こうして私は30歳の時に、社長に就任しました。時代はちょうどバブルの終わりを
告げるときでしたが、私達のような最後の工程で作業する職種は、通常1年から2年後に
影響がでてきます。それでも当時はまだ今の年商の倍近くは売り上げていましたので、
相変わらず強気の商法でした。家具の移動(模様替えの手伝い)、畳を上げた後の荒床の 清掃、新しく入れた表の拭き掃除など、今では当たり前のことの様にやっているサービスですが、当時は何一つしていませんでした。そんなことは自分達がやることではないと、
そんな横柄な考えを持っていました。社長に就任して16年が経ち、今でこそ次はどんな
サービスを取り入れようかと考えるようになりましたが、本当に当時の自分は心が腐っていたなと思います。お客様にありがとうと言ってもらえるような仕事をする。それが今の社訓です。とは言っても、まだまだ血気盛んなAB型ですので、人として間違ったことや、言いがかりをつけられると、年上であろうが立場が上であろうがお客様であろうが関係なく、すぐ喧嘩をしてしまいます。後から社長失格だなと思う事が度々です。いつになったら大人になれるのか、ガンジーのような境地に立てるのか、自分ではわかりませんが、
いろいろな占いで、あるいは手相診断で、共通して大器晩成と出るので、それだけを楽しみに今後も頑張って行きたいと思っています。未熟者の私ですが、今後ともご指導ご鞭撻のほど、宜しくお願い申し上げます。
7月
22
16年の歳月の中で・・・
カテゴリー 坂本畳店について
6月
3
利益がでれば社員へ還元しろ!これが父の考えです。一方、利益は内部留保し、将来へ備えたい!
これが私の考えでした。確かにあの当時、今思えばバブルの終わりかけでしたが、当時は誰も終わりが
来るなんて考えてもいません。当然二人はぶつかり合います。「職人があっての会社だ!
税金払うぐらいなら、全部ボーナスでだしてやれ!」「この先どうなるかわからないんだから、
半分税金で持っていかれても、貯めておいたほうがいい!」何を言ってもらちがあきません。
そのとき父が出した結論は、「じゃあ、俺が個人的にボーナス出してやるからいい!」でした。
当然「ふざけるな!俺の立場はどうなる!」と大喧嘩。結局この騒動は、親戚中を巻き込んで、
大家族会議に発展し、協議の結果、父が引退し私が社長になることに決まりました。
しかし私の心は晴れませんでした。なんか無理矢理父から会社を奪うようで、釈然としないというか、
本当の意味で、認められて交代するしたかったという思いからか、もやもやとした気持ちが心の中に
広がって行き、結局父に頭を下げて、社長交代は取りやめとなりました。もちろん親戚中には、
何のために集まったんだと怒られましたが、私の心は晴れ晴れとしていました。しかしその後、
社長交代までの時間は、そう遠くはありませんでした。そう、半年もしない間に、ある日突然、
父は「社長を交代する。あとはお前がやれ!」と言って引退を決意したのです。 続く
5月
12
無責任の終焉と責任の始まり
カテゴリー 畳について
私が20歳のとき高血圧で倒れて以来、何事もなく元気だった父が、突然倒れたのは心筋梗塞によるものでした。 当時出来たばかりの自治医大に運ばれ、先生から治療には足の血管を採取し、それを心臓の周りのつまってしまった血管の代わりに使うと聞かされたときは、かなりのショックだったことを覚えています。心筋梗塞は、今でこそ ポピュラーな病であり、手術も簡単になりましたが、当時バイバス手術ができる病院(先生)は少なく、当時の担当の先生からも、この病院ができてなかったら、助からなかったと思いますよと言われました。大手術に、長期にわたる入院を経て、父は元気になって退院となりましたが、先生に10年後生きてる確率は3割ですと、はっきり言われた瞬間は、私にとっては、イコール専務という楽な立場から、引きずりおろされる感覚を意識した瞬間でもありました。
しかし元気になったとはいえ、前の様には働けなくなった父の代わりに、精力的に仕事をこなしていった私は、周りの人達からも持ち上げられて、だんだんつけあがっていくようになりました。もうそうなると、自由が利かなく苦しんでいる父と、わがもの顔の私は、仕事のやり方で度々衝突するようになり、ついにあの大喧嘩の日を迎えるのでした。 続く
4月
15
会社には大学を卒業(1年留年)してすぐ入社しました。本当は入れるかどうかは別として、資生堂に入りたかったのですが、大学2年の春に父が高血圧で倒れ、次に倒れたら助からないといわれていたので、外で働くという時間的余裕ありませんでした。
畳の仕事に関しては、高校のときからちょこちょこ家でバイトをしていたので、入社後は2年ほど畳の修行をした後、徐々に社長業の勉強をするようになりました。
ただ大きな会社ではないので、帝王学を学ばされるというよりは、俺の背中を見て覚えろって
感じでした。しかし実際の仕事内容は、うちは畳店といっても内装業もしていましたので、
その頃は主に内装の見積もり、材料の手配、職人の手配や残材の回収などの繰り返しでした。
もちろん忙しいときなどは、畳の手伝いもしてはいましたけど、それは数えるほどでした。
その後年々社長業の仕事の比重が大きくなりました。この当時は皆から専務と呼ばれ、立場的に非常に心地よい場所にいました。
すなわち会社のNo2、つまり次期社長と崇められながら、責任はない立場というわけです。
今思えばやりたい放題、この頃には使っている職人さんや取引先も自分の好みの人達を多く
使うようになり、自分色を強く出し始めた頃でもあります。日増しに付き合いも多くなり、
夜も忙しくなり、生活が乱れてきた時期でもありました。
そんなときです、父が心筋梗塞で倒れたのは・・・続く
4月
14
忙しさにかまけて、ブログの更新怠けてましたが、ようやく暇になったので、
これからはどんどん投稿するつもりです。
そこで今日から私の生業について、少しずつ話していきたいと思います。
昨今でこそ、畳替えのチラシや電話等で、畳の営業が増えてきましたが、
今までこの業界は、受身の考えが強く、自ら営業することはまれでした。
というのも昔から部屋といえば畳、という流れがあったので、営業しなくても
断るほど仕事があったからです。私が入社した頃は、11月から6月まで毎日残業、
休みも日曜(12月は休みなし)だけで、祭日さえも関係なく仕事でした。
いわゆるバブルの時代です。営業なんて考える必要はありません。一日やった分、
その日のうちに、また仕事が入ってくる。そんな日の繰り返しだったからです。
おかげで毎年給料は上がるは使う暇がないはで、かなりお金が貯まりました。
当時は旅行も多く、大概の工務店で総会旅行があった為、年に7回前後は旅行に
行っていました。また、新年会・忘年会などの飲み会も多く、12月から1月までは、
週2ぐいらいのペースで飲み歩いていたのを覚えています。
今思えばこの贅沢な経験が、その後の仕事のやり方、会社の運営の仕方に悪影響を与え、
その後会社を間違った方向へ導いてゆくことを、その時の私は思いもしませんでした。
続く








